こんにちは、永嶋泰子です。

NICU、つまり新生児集中治療室はセキュリティの厳重な場所でした。
まず、NICUにたどり着くまでにインターフォン付きの2つの入口をくぐる必要があります。
というのも、小児病棟と同じ空間にあり、病棟の奥にNICUがあるからです。
2つ目の入口を通ったらロッカーに腕時計を含むすべての手荷物を預け、洗面所で念入りに消毒をします。
そしてさらに入口があり、(さすがにインターフォンはありませんが)まずはGCU(NICUを卒業した赤ちゃんがいる場所)を通った奥にあるのです。
しかし、すぐにむすめに会うことは叶いませんでした。
産科の看護師さんに車椅子を押された私と夫、母との3人は別室に通されました。
通された部屋は小さく、テーブルと椅子が3、4つ。
そしてデスクトップパソコンがテーブルに置いてあります。
「もう少しで先生が来ますので」
NICUの看護師さんがドアを開け、そう告げました。
出産から5、6時間。
どうにも体がフラフラしていました。
…
…..
しばらくして、やって来たむすめの主治医は年のころ40くらいの男性でした。
そして、もう一人。
ここで話したことを記録する看護師が同行。
実は、別室で医師に呼ばれて話を聞くとき、必ず記録係りの看護師がいるのです。
おそらく裁判など万が一に備えてのこと。
それだけ、緊迫した状況、
患者を受け入れいる場所だと朦朧とした状態ながら感じていました。
「まずは、ご出産おめでとうございます。」
言いにくそうに、しかし真剣な表情で主治医は言いました。
病院関係者に「おめでとうございます」と言われたのは初めでです。
産科では誰も言ってくれなかったから。
けれども、私は嬉しかった。
たとえ、生まれてすぐに亡くなっていたとしても
出産は新しい命を生み出すこと。
だから「おめでとう」と言っていただけたこと、母親になったんだとそんな気持ちになったのです。
「24週0日ですね。
実は、24週というのは節目でアメリカでは24週からしか救命することはできません。」
補足しておくと日本では22週から救命することが可能。
しかし、医療保険がなくリスク管理に厳しいアメリカでは救命されない。
22、23、24週で生まれた赤ちゃんにとっていかに生存が難しいか、すでに物語っている現実。
*
さらに、主治医の話が続きます。
むすめは産科の分娩室で生まれたあと、肺ができていないため、あえて泣かさないようにして主治医がNICUまで運んだこと。
その後、治療を施し、現在は保育器に入っていること。
また、今後起きるであろうリスクの説明。
まずは72時間。
ここを特に大きな問題なく生き残ることができれば、一つの山をクリアしたことになること。
特に脳への懸念が大きく、72時間のうちに脳梗塞などが起きれば障害が残る可能性が高いこと。
生か死。
それが早産の現実。
・
ひととおり話が終わったあと「娘さんに会いましょう」と言われました。
正直なことを言うと、まだ会う勇気はありませんでした。
生きるか死ぬかわからない我が子。
そして受け入れらない早産となってしまった現実。
どれもが耐え難いほどに辛く、たとえ会ったとしても「かわいい」と思えなかったらどうしよう、と思ったのです。
そもそも胎児の姿で出てきたむすめがどんな姿なのか、その不安もありました。
そしてはじめて入るNICU。
そこに行けるのは、赤ちゃんのお父さんとお母さんだけ。
たくさんの保育器、設置されたモニター、医療機器、そして絶えずなり続けるブザー。
集中治療室をあらわすのに、ふさわしすぎるほどの緊迫した空気。
そして、はじめて会ったむすめはガーゼに包まれて顔は見えなかったものの
足をもぞもぞさせていました。
皮膚は少し赤かったけれど、動いていたことにホッとしました。
”この子はきっと大丈夫”
そんな気がしたのです。
くたっと寝たきりになった我が子を想像していたからか、動く姿に生命力を感じました。
「赤ちゃんって生命力を感じますね」と思わず、隣の看護師さんに言ったら困ったような顔をしていましたが。
けれども私は”この子は生命力がある”と感じたのです。
もしかしたら、無理にでもポジティブな要素を見つけたかったのかもしれない。
けれども、もはや私の力及ばぬところで生まれてしまったむすめは、彼女の力で生きる他ないのです。
変わってあげられるものならば変わってあげたいけれど、それが叶わないことは私にだってわかってる。
だったら、信じるしかない。
それが、小さなむすめとの出会いでした。

永嶋泰子